村井弦斎まつり

 
  

私と弦斎

村井弦斎、村井家、食道楽、平塚、豊橋、伊豆………弦斎とゆかりのある方々に「私と弦斎」について伺います。
不定期更新です。お楽しみに。

説経浄瑠璃師 若松若太夫

1 プロフィール(自己紹介)をお願いします。


説経浄瑠璃師 若松若太夫(わかまつ わかたゆう)

若松若太夫
1989年、二代目若松若太夫の公演を聴き感動を受け入門する。
同98年に三代目若松若太夫を襲名。

2000年、東京都指定無形文化財(芸能)保持者、板橋区登録無形文化財説経浄瑠璃保持者に認定される。
埼玉県狭山市在住。

*説経浄瑠璃は、説経節ともいい、古く平安時代に空海上人が仏の教えにリズムをつけて分かりやすくしたのが始まりと言われています。
明治時代、説経浄瑠璃がさまざまな芸能に押され埋没しようとしていたところを弦斎先生、渋沢栄一先生、嘉納治五郎先生など、財界、教育界の方々が後援会「若松会」を設立され、初代の面倒をみてくださいました。
大正5年には、ついに帝国劇場で若松会の公演が開催され、満席の観衆を魅了しました。

説経節 若松若太夫 若松派 公式サイト
YOUTUBE 説経浄瑠璃 三代目・若松若太夫 一声二節のわざ 【独演会】 上席 (令和2年6月13日) 「御祝儀 宝の入船」  「さんせう太夫 鳴子唄 親子対面の段」 * 「さんせう太夫」は弦斎先生が手入れしてくださった台本を使いました。 中席 (令和2年6月20日) 「石童丸 山巡りの段」 「石童丸 札書きより衣掛けまで」 下席 (令和2年6月27日) 「佐倉義民伝 甚兵衛渡し場の段」 「佐倉義民伝 住家子別れの段」

2 弦斎を知ったのはいつですか?

先代に入門した頃(1989年頃)でしょうか。先代から初代のお師匠さんが大変お世話になったと聞きました。
先代は本名を寛(ゆたか)といいましたが、弦斎先生の本名をそのままいただいたそうです。
『食道楽』という本を著した方と聞いていました。

3 弦斎のどのような点に興味を持ちましたか?

平成18年に学芸員をしていた博物館で『初代若松若太夫展』という企画展を催した際に、黒岩比佐子さんの著書『食道楽の人村井弦斎』を読み、大変感銘を受けました。

弦斎先生の知見が料理のみでなく、栄養学や伝統芸能にも深い造詣をお持ちだったことが驚きでした。初代の台本も随分と校訂して下さいました。
初代が平塚のお宅に伺い説経節を披露した時に、お客様がいるにもかかわらず、弦斎先生に厳しくダメ出されて、きまりがわるく頭をかいていたというエピソードも印象的でした。

弦斎の長女、米子さんは、
「説経節「若松若太夫」の美声をみとめ、平塚に招いて、下品なところを直してやった。台本にも手を入れた。「石童丸」「山椒太夫」などを覚えている。」(食道楽復刻版(昭和51年 1976)) と書いていますが、厳しい先生だったようです。

「若松若太夫芸談 文楽と説経の歴史」 には、弦斎先生が茶や禅の稽古をすすめたり、細かい語り口にも厳しくこだわりながら、時には大いに褒めて、素晴らしい三味線を贈るなど、熱心に指導された様子が描かれています。(1951年 山口 平八,戸部 銀作 著)

弦斎先生は、単に説経節を語る芸人を育てるのでなく、一つの芸術としての説経節を構想してたのではないでしょうか。「その芸術を語る者」という自覚を初代に促すために厳しくしていたと思います。
弦斎先生が手を入れた「山椒大夫(さんせう太夫)」は、言葉使いを格調高く、臨場感あふれる演出が特徴です。
例えば、母をババ(婆)と呼ぶところをうば(姥)と古典的にしています。
鳴子歌の前には「悪人の手に捕われて、慣れぬ下職の鳴子引き」と入ります。また、庄屋を呼び出す場面では、これまでは行列が止まって平らなところから呼び出していましたが、馬上からになり、臨場感があって素晴らしいと納得いたしました。  
弦斎先生は説経節にとってまことに有難い御方であったと私は感謝しています。

4 弦斎とどのように関わってきましたか?

平塚在住の弦斎ファンの皆様が声を上げてくださいまして、平塚まちづくり財団の企画で昨年(2019年)、「八幡山の洋館」で「村井弦斎ゆかりの説経節を聴く」という催しができて大変うれしかったです。
平塚の皆さんにもぜひ説経節を聴いていただきたいと思います。

5 弦斎について、どのようなところを知ってもらいたいと思いますか?

明治期に活躍した皆様に共通する多才性でしょうか。
特に芸能通だったというところを知っていただきたい。また信念を貫く厳しさと実行力にも感心します。

2020年6月 若松若太夫

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